日曜の夜にサザエさんの音楽を聞くと憂鬱になるので、脱サラをしてれんこん農家として起業することにしました!
日曜日の夜、テレビから流れるサザエさんの音楽を聞くと、ため息混じりで「あ〜日曜日も終わりか」と憂鬱になるサラリーマンがいた。
それは、11年前に脱サラし「れんこん農家」に転身した川端崇文さんのこと。
彼は、農家に育ったわけではない。ましてや、農業で勝算があったわけでもないのに、
なぜサラリーマンから農業に転身したのだろうか?
その謎を解明すべくインタビューを行った。
「多動力」職を転々としていますが何か?
遡ること11年前。金沢市内の会社に勤務する28歳になる中間管理職のサラリーマンがいた。
実は彼は職を転々としていて、この会社は1社目ではない。
彼は、あれもやりたい、これもやりたいと思うタイプで、物事を考えずにチャレンジをするが、案外器用にこなせてしまうと直ぐに飽きてしまい辞めてしまう。職を転々とする人は何か問題があるのでは?と思われても仕方がなかったが、最近ではホリエモンの「多動力」という本の影響もあってポジティブな見方をされることもある。
彼は、松井秀喜の母校である星稜高校時在学中から、働きたくてうずうずしていた。勉強が決して嫌いだったわけではなく、卒業後は大学に進学せずに働くことだけは決めていた。
卒業後に始めたのは美容師への道。彼の現在のヘアースタイルからも想像できる。しかし、カットをさせてもらう前に辞めてしまった。そして、突如、芸能人になりたいと思い、翌日すぐに上京し、劇団に入った。
東京での生活は楽しかったが、生活が苦しく、Uターン。
その後、工事現場などで作業員として働いていたが、会宝産業という、車のスクラップをしている会社に就職。当時は従業員が10人ぐらいで、彼は重機を使った車の解体作業を担当していた。その後、事業の拡大に伴い、従業員も増え、彼は中間管理職に昇進。しかし、何よりも現場作業が大好きだった彼にとって、毎日スーツにネクタイを締め、会議やデスクワークを中心とした仕事を窮屈さに感じていた。
ある晴れた日の朝、いつものように自転車で会社への通勤の道中、同年代だと思われる若者がラフな服装で楽しそうに農作業をしているのを見て眩しくて羨ましく思った。
「やっぱり、太陽の下で現場作業がしたいな〜。会社行きたくないなあ〜」
そこで、家庭菜園を始めてみた。これがとても楽しい。ウィークデイのストレス解消にもってこい。土いじりで身体を動かして汗をかくのも楽しいけど、農作業をしているとご近所の方が近寄ってきて、野菜の話からいろんな話をしたり、時には物々交換をしたりと、社会の一員として生きている実感を感じた。
今の会社は業績が拡大中で、我慢すれば出世できるかもしれないし、給料もそこそこは増えるとは思う。しかしながら、所詮サラリーマン。高校生の時にイメージしてたスケールとは異なることから、退職を決意しれんこん農家になることにした。農家では食えないとはわかっていたが、後悔はしたくないとの思いからの決断である。
れんこん農家を始めるにはまずは圃場(ほじょう)を調達しなければならない。蓮畑(はすばたけ)の見積もりをもだったらなんと1,100万円。
周囲からは猛烈に反対されたが、何とか家族を説得し、車などを売って資金を集めた。実は、その時、妻には2人目がお腹の中にいたのだ。れんこん農家になることに対して、一番不安を感じていたのは妻だと思う。でも、真っ先に理解を示してくれたのは妻だった。彼女には今でも感謝している。
念願かなって、借金をしながらも蓮畑を購入してからは、とにかく休みなく、働いて、働いて、働いた。川端崇文さん、当時28歳のこと。
れんこんの収穫期はほぼ1年中?!
れんこんの収穫期がほぼ1年中だというと驚かれる。
れんこんの食べる部分は地下茎の肥大化したものなので、冬場でもそのままにしておけば、生きたまま眠ってるので8月から5月までの間ずっと収穫できるのだ。残りの2ヶ月はにんにくや玉ねぎの生産を入れているので、一年中収穫をしている。
夏場は深夜1時に起床し、2時から朝の9時ぐらいまで蓮畑の中でれんこんを掘る。収穫作業のあとはそのまま出荷作業。お昼ごはんを食べたあと1時間ぐらい仮眠をしてから配達に行き、夕方家に戻って晩御飯を食べ、9時ごろに寝るという生活。夏場の睡眠時間は平均してたったの2、3時間。
こんなに動いているのに痩せないのが彼の悩み。彼いわく、お酒の飲み過ぎだとか?(笑)
加賀れんこんのルーツ
河北潟のこの地域は、れんこん畑を家庭菜園としてやっているところもあるほど、一面にれんこん畑が広がっている。
石川県の、れんこんの栽培は、殖産事業として切り花用に栽培されていたのが始まり。加賀藩の5代藩主、前田綱紀が参勤交代の折、美濃からはすの苗を持ち帰り、金沢城内に植え、芽が出たという。また、「ハスノ根」として上層武士間で薬用にも供されていたといわれている。
明治時代に入り、れんこんの商品性が注目され品種改良を重ね、現在のように食用として栽培されるようになったそうだ。
金沢市大樋町一帯(小坂地区)で栽培されいたことから「小坂蓮根」と呼ばれ、昭和40年頃に河北潟干拓地まで加賀れんこんの栽培が広まったことで国内有数の一大産地となり、現在では「加賀れんこん」と呼ばれている。
品種は「支那白花」で白い花が咲くのが特徴。レンコンは産地によって品種が異なり、県外から来て、白い花を見てびっくりされる人も多い。
れんこんは、穴があいていて先がみえることから縁起の良い食べ物とされているが、
加賀れんこんは、節と節の間が短く肉厚。他県のれんこんと比べて穴が小さく、中身がしまっていることから同じ大きさのものでもずっしりと重い。
また、澱粉質が多く粘りが強いので、すりおろしてハス蒸し煮するのに最適。蓮蒸しにしてもつなぎをあまり必要とせず、モチッとした食感があるのが特徴。
オイシックスのN-1サミット2011でヤンググランプリを受賞
28歳で脱サラ、れんこん農家に転身した川端崇文さん。
既成概念が無いが故に、攻めの農業を続けた結果、起業から5年後の2011年にオイシックスのN-1サミット2011でヤンググランプリを受賞。自分で育てたれんこんが評価され、全国に生産者の名前付きでれんこんを出荷することができるようになったことから、さらにれんこんづくりに自信を深める。
同時に自らの手で販路開拓へと乗り出した。地元金沢のレストラン・プレミナンスの川本社長がれんこんを採用してくれたのがきっかけで、フリーアナウンサーの宮川俊二氏から東京の一流店を紹介してもらったり。
さらに、東京のレストランに手紙を添えてれんこんを送ったところ、何軒かが使ってくれるなど、少しずつ口コミで広がり、現在では複数の有名レストランと直取引ができるようになった。いずれは海外も視野に入れている。
いしかわ産業化資源活用推進ファンドに認定される
新商品の開発にも余念がない。
例えば、れんこんチップス。以前から、れんこん農家や一般家庭では以前から食べていたが、商品としては流通していなかった。それは、レンコンはほとんどが水分から出来ているため、乾燥させたら量が減ってしまうからだ。原価が高い上に全てが手作業で供給が追いつかないから、商品にしても割に合わないからだ。
そこで彼は、金沢のお土産物として位置づけたらどうかと考え、商品開発に取り組んだ。一袋60グラム入りで600円と高めの価格設定だが、売れ行きは好調で年間1万袋以上も出荷している。
現在は生産を外部に委託しているが、24年度のいしかわ産業化資源活用推進ファンドの認定を受けたことで、粉砕機や乾燥機を購入し自社で加工事業を始めようとしているところだ。
また、蓮の葉を商品化できないかと言うことで、他の食品に練り込むのを目的に葉を乾燥させパウダーを作り、農業試験場と県立大学に協力してもらって1年間かけて機能性分析を行った。その結果、様々な効能が見つかった。現在、新たな加工食品だけではなく、パウダーのままでの商品化している。
さらには、氷温貯蔵庫にレンコンを4週間入れると糖度等の機能性が上がることから、れんこんアイスの商品化など、次々の新商品のアイディアが出て来る。アイディアは忘れないようスマホにメモしている。
会議の無いマネジメント
現在、社員7人。収穫3人。加工3人。チップスなども始めると加工をする人が足りないことから必ず誰かにしわ寄せがいっているはず。しかしながら、全員楽しそうに仕事をしている。この少ない人数でどうやって組織をマネジメントしているのだろうか。
全ては現場に任せている。
この一言に尽きる。
月の給料は固定。やってほしいことだけを指示するだけ。
窮屈な仕事は飽きちゃうからさせない。会議もしない。自由でないとアイディアは出てこない。サラリーマン時代は怒鳴られてばかりだったが、一度も怒鳴ったことはない。
昇給も業績をみてその時々で実施する。アットホームな感じ。普段の会話の中で情報交換をしているため会議は必要ない。
従業員の平均年齢は30代前半。
子供がいる主婦もいるが、子供の運動会にも行きやすい職場環境。やることをちゃんとやってくれれば時間の使い方は自由だ。その方が、彼も営業にも行きやすいのだ。
とにかく、「農業は辛くてしんどい」と言うイメージを、「農業は楽しい」と思わせたい。
農家のモチベーションは、お客さんに「美味しかった」と言ってもらうことでアップする。
顔の見える農家になれば、スーパーの店頭でもお客さんから声をかけてもらえるし、「もっと美味しいれんこんを作らなくちゃ」と自分自身に対するプレッシャーにもなる。
従来のように、流通経由でスーパーに並べると、陳列されているれんこんにばらつきが生じる。加賀れんこんの特徴は粘り気なのに、粘り気の無いものも混じってしまう。
生産地が同じでさえあれば、加賀れんこんと表記できるから高く売れる。粘り気に差があったとしても。一部の農家の行動が加賀れんこん全体のイメージダウンにつながってしまう。
直販の場合、そうはいかない。納入先の東京のレストランでは、築地で買ってきたレンコンと毎年比べられる。その上で選んでもらえると励みにもなる。もちろん、プレッシャーにも。
東京の有名レストランのシェフが畑を見に来てくれることも多い。彼らは生産者に会い、直接話を聞いてから食材を決めている。全ては信頼関係だ。
最近のレストランは全国から直接美味しい食材を直接取り寄せているのでますます美味しくなってきている。上京する際はお客さんのレストランで食事をすることにしている。食事代金がその月に販売したれんこんの代金を上回ることも多々あるが、レストランのお客さんの立場で料理を味わい、そのコースの中でれんこんがどんな役割をしているかを舌で感じることで、れんこん栽培に活かすためだと思えば安いものだ。
「型」を破る
点と点だったものが、線でつながってきた気がする。
思いもよらないところから声がかかるようになった。世界料理学会などが良い例だ。
また、つながるのは人間だけではない。
無農薬でれんこんを栽培しているが、その影響で、圃場の中にはザリガニなど様々な生物が生存するようになった。すっぽんが居たのにはビックリした。生物が増えると野鳥も増え、カメラマンも良く見かける。
経済が成長する時代においては人は都会に集まるもの。成熟期入りした社会は、都市部から離れて畑のある農村部に戻るべきなのかもしれない。もちろん、経済力が国力のバロメーターであると以上、都市部はさらに発展する必要はあるが、人間の幸せは経済力だけではない満たせない。子供の時のように土に触ることで感じる幸せもあるはず。今の大人には幼少期の記憶を目覚めさせることが必要なのかもしれない。
川端さんは、型破りな人生を送ってきた人だ。
型と言えば、茶道・華道・書道・柔道・剣道……およそ「道」のつくものには「型」が存在する。
彼のインタビューの中で、印象に残ったキーワードが
「気配り」と「整理整頓」である。
これは明らかに日本人独特の「型」である。
彼が今もなお成長し続けるのは、親から教わったしっかりとした「型」があるからこそ、自然体で社員と接することができ、次々とチャレンジすることができるのでないだろうか。
「全ては、10年後に違う農業のステージに立つため」
10年後が楽しみだ。
追伸:
Googleストリートビューで広大な蓮畑をお見せしたいところなのだが、撮影された季節があまりよろしくないので、見たい方は実際に見に行くと良いだろう。ホリ牧場ミルク館の近くだ。
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